情報化社会における偏見形成とマスメディアの関係論

目次

序章   研究概要 

第1章    現存する社会的認識にみる蔑称としての「オタク」

「オタク」の語源と変遷

普及の契機、東京・埼玉幼女誘拐殺人事件 -日本社会のトラウマ―

連続幼女誘拐殺人事件と報道 -その終着点-

現在も根深く残る偏見  ―『広辞苑』のオタク定義―

 

2

時代の変化と連動するオタク世界の概要

社会的嗜好の変化と新世代オタク 

単一の社会的規範が存在しない現在

「動物化」とは? ―東浩紀的ポストモダン論―

転向点としての『エヴァ』 ―多様性の時代―

趣味・嗜好による人格定義の不可能性 ―先行研究より―

 

第3章 アンケート結果にみるオタク偏見の実態

ステレオタイプは実存するのか 

イメージの内訳          

名言、あるいは罵詈雑言    

画一的なオタク像 ―図画編―

マスメディアの報道がオタクステレオタイプを形成した

オタクへの悪印象が生まれる瞬間を再現

 

第4章    被差別から避差別へ、現役オタクの告白

      インタビューより

「俺たちに人権を与えてください」

同属嫌悪渦巻く閉鎖共同体

「オタクだって一般人なんですよ」 ―文化相対論から見るオタク―

 

 

第5章 犯罪報道に見るマスメディアによる偏見形成

奈良女児誘拐殺人事件(2004年)

NGO-AMIによる大谷氏への公開質問状

2ちゃんねるは平成の大鏡

神戸連続児童殺傷事件(1997)

宮城警官刺傷事件(2005

 

終章 

  用語解説

  

  参考文献

  付録

序章 はじめに                                                      

 

第1章   現存する社会的認識にみる蔑称としての「オタク」   

                                               

「オタク」の語源と変遷

 

まずは、現在決していい意味では用いられない「オタク」という言葉が、どういった背景で生まれ、どのように用いられてきたのかを追っていく。

「オタク」という言葉の歴史は案外浅い。19836月~8月、作家・中森明夫氏が雑誌『漫画ぶりっこ』の「『おたくの』研究」というコラム上で初めてオタク(この記事では平仮名)という言葉を活字化したらしい。これは、アニメファンなどが人と会話をする際、相手を「おたくさぁ」などと呼んでいたことに由来するという。

しかし、『倒錯』という本の中に「評論家・大塚英志氏が「おたく」はロリコンファンやアニメファンを蔑視する差別用語であるとクレームをつけたので、(「『おたく』の研究」の)連載は3回で打ち切られた。」とあった。つまり、「オタク」は最初から蔑称だったのである。後のオタク擁護論第一人者である大塚英志氏が、即座に反論していた事実も大いに納得できる。「オタク」という言葉に含まれる怪しげなニュアンスは、このころからすでに存在していたのだ。

その後、メディアが「マニア」と同義に用いた事により、広い意味で何かに熱中している人を「○○オタク」などという場合も多く見受けられる。それにより、アンケートでも「何かに熱中しているのであれば、ある意味では誰もがオタクだ」といった趣旨のコメントが何件か寄せられていた。言葉の定義で文句を言うつもりは無いが、本文中では広義での「事柄は何であれ、熱中する人」ではなく、狭義の「オタク系文化に耽溺する人」の意味で「オタク」を用いるので理解していただきたい。比較的新しい言葉なので、意味が不確かなのは仕方がない。

最近ではオタク系文化に耽溺する人のことを「アキバ系」「ヲタク」などとも呼ぶこともあるが、それらも依然として蔑称のままだ。また、ネット上で広義の使用例として「鉄ヲタ」(鉄道オタク)「モーヲタ」(モーニング娘。オタク)などが挙げられる。鉄道の場合は、マニアと言い換えても何の違和感も無いが、アイドルグループとなると際どい。

 

普及の契機、東京・埼玉幼女誘拐殺人事件 -日本社会のトラウマ―

 

「オタク」という言葉を急速に普及させるきっかけとなったのは、198889年にかけて起こった連続幼女誘拐殺人事件の報道である。当時の事件報道を知らない私は最初、一事件の報道が「オタク」という一単語にこんなにも暗い影を落としたという事実にまず驚いた。しかし事件の詳細を知り、当時の話を聞くにつれ、この事件の壮絶さや当時の報道の激烈さがしだいにわかってきた。若い世代にとっては皆目見当がつかない事だと思われるので、当時の様子がわかる文献を引用しておく。

     

連続幼女誘拐殺人事件=一九八八年六月から八九年六月にかけて、埼玉県内を中心に4人の幼女が次々に誘拐され殺された事件。八九年7月に強制わいせつで逮捕された東京・五日市町の印刷業手伝いM(当時二六歳)が、八月になってこの一連の幼女殺害を自供した。Mが極端なビデオマニアで、殺した幼女をビデオに撮っていたことや、死体をバラバラにしたり、あるいは焼いた骨を被害者宅に送りつけて犯行声明文を公にしたりした事から、事件は新しい時代の猟奇殺人事件としてジャーナリズムを異様な興奮にまき込み、雑誌には「鬼畜」「淫獣」「殺人鬼」の見出しがおどった。

伊丹十三・岸田秀・福島章『倒錯 幼女連続殺人事件と妄想の時代』1990年 13

 

  M君事件の報道の中で、「おたく族」ということばがたびたび使われていましたね。M君のように、他人とのコミュニケーションをもてない、もとうとしない若い人。それもただ内向的なだけじゃなくて、自分の興味がきわめて狭く、その狭い世界にやたらこだわる人。ようするに、いまふうのマニアの意味でも使われるようになったことばです。(中略)「おたく」の名づけ親といわれている中森明夫さんが最初にこのことばを使ったのも、コミケット(コミックマーケット)に現れる「髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊ちゃん刈り。イトーヨーカ堂や西友でママに買ってきて貰った九八〇円一九八〇円均一のシャツやスラックス」を着た内向的なマンガマニアを指してのことでしたし…

    伊丹十三・岸田秀・福島章『倒錯 幼女連続殺人事件と妄想の時代』1990年 221

 

うちの子もひょっとしたらM君になる可能性があると、日本中の親が思ったわけだ。――週刊誌は「息子を救う『親』の10か条」やら「おたく度チェック」やら、いろんな特集を組んで親の不安をあおってましたね。

    伊丹十三・岸田秀・福島章『倒錯 幼女連続殺人事件と妄想の時代』1990年 225

 

連続幼女誘拐殺人事件と報道 -その終着点-

 

東京・埼玉幼女連続殺人事件は、甚だしく残虐なものであった。そして犯人がビデオマニアであったり、コミックマーケットに出入りしていたりした点にマスコミが目を付けたのである。マスコミによって、おたく族のロリコンのイメージと猟奇的な幼女殺人事件が、広く世間で結びつけられてしまったのだ。中森明夫氏がコラムを連載した雑誌がロリコン誌だったことが痛々しすぎる皮肉となった。当時、こういった一面的報道を牽引していたのは、週刊誌などのメディアであった。「ジャーナリズムを巻き込む異様な興奮」が地下鉄サリン事件のときよりも激しかったのかどうかは私にはわからないが、オタクの悪い印象がこれを境に広く一般化したことは確かである。

この時「犯人M=おたく族、おたく族=ロリコン=犯罪者」という図式が人々の中にインプットされた。今までおたくという言葉を知らなかった人も、危険な犯罪者予備軍としておたくという言葉を使い始めたことであろう。事件当時3歳だった私がオタクという言葉の普及した背景を知る由は無く、この事実を知った時には、安易に大人の前で「オタク」などという言葉は使えないのではないかと真剣に悩んだほどだ。

次に引用する文章は、Mの裁判に関して評論家の大塚英志氏が寄せた意見についてのものである。

 

      (1992年)1111日、第15回公判が開かれた。このときの公判で弁護側の証人として、コミックやアニメーションの雑誌を編集し、メディア評論家でもある大塚英志(当時34歳)が出廷し証言した。

大塚は第1回公判から傍聴を続け、拘置所でM本人と面会して、父親に4回、母親に1回会っている。Mの自宅から押収された5793本のビデオや所蔵していたコミックやアニメーション雑誌のリストから傾向を分析して「意見書」で論じている。大塚は次のような証言をした(その一部)。

        「ビデオの収集はマニア的なものではなくそのコレクションはただ数を集めることにある。プロレス、アニメーション、CM、刑事ドラマなどが1本のテープに入っており、コレクターとして杜撰すぎる」(中略)「6000本近いテープで、性的なものや残酷なものはわずか1%でしかない」

「M幼女連続殺人事件」 

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/miyazaki.htm

ここでもやはり、オタク擁護派の大塚氏はマニアという言葉で濁してはいるものの「M=おたく族」という図式を崩そうとしている。当時こういった意見は大塚氏の他にも多くの作家や評論家から寄せられたようだ。おたく族を命名した中森氏に「差別だ」とクレームをつけた大塚氏ならおたくという言葉を避けても仕方がない。しかし、「この事件をきっかけにこの二人は歴史的な和解をした」と『倒錯』中にある。そういうわけで、その後の大塚氏の著書にも平気でおたくという言葉が用いられているわけである。

 このように当時、文化人の間にもM事件とおたく族を巡って様々な論争があったようだ。そうして、この事件の後に、おたくについて言及を始める評論家が増えた。宅八郎氏、岡田斗司夫氏などがそうである。ちなみに現在若い世代で一般的になっている片仮名表記の「オタク」は岡田氏が「本当のオタクは『お宅にいるインドア派の暗い人』ではない」ということで、おたく族・お宅に対抗して積極的に用いたと言われている。片仮名表記が普及している点では、ある意味功を奏しているが、イメージを改善するには至っていないのが事実である。

 このように、オタクという言葉はそもそもロリコン誌上で生まれ、趣味嗜好、外見、家庭環境などを見下す差別用語だった。極めつけに、広く普及したきっかけが猟奇的な連続幼女殺人の報道であったのだ。当時の報道をその目で見た世代は「オタク」「オタッキー」「ネクラ」を忌み嫌い、そう呼ばれることは最悪のレッテルを貼られることだと思っていたそうだ。現在にいたるまで、彼らに脳裏には宮崎勤の部屋の映像が焼き付いていることだろう。

 

現在も根深く残る偏見  ―『広辞苑』のオタク定義―

 

おたく【御宅】@相手の家の尊敬語。

         A相手の夫の尊敬語。

         B相手または相手方の尊敬語。

             C(多く片仮名で書く)特定の分野・物事にしか関心が無く、その事には異常なほどくわしいが、社会的な常識には欠ける人。仲間内で相手を「御宅」と呼ぶ傾向に着目しての称。            

新村出編『広辞苑 第五版』岩波書店1998,2002

 

引用した『倒錯』の「他人とのコミュニケーションをもてない、もとうとしない若い人。それもただ内向的なだけじゃなくて、自分の興味がきわめて狭く、その狭い世界にやたらこだわる人。」という部分と比較していただきたい。イメージ的にはほぼ同じであろう。後半に語源説明もある。要するに、このオタク定義は中森氏のコラムに始まり、M事件の報道下で生成された世間一般の認識に基づくものだ。辞書とは社会という共同体においてある程度一般性を持つ意味を定義するものなのだから、当然と言えば当然だ。しかし現在、中森氏のコラムから20年以上、M事件から15年以上経ったのである。現在、私の身の回りや、目にするウェブページや文献の「オタク」使用状況から考えて、この定義は現状に追いついていないのではないかと思えてならない。と言っても決して「現在のオタクはもっと恐ろしい」などと言うつもりはない。そうではなく、現在は「ひとつの物事への執着が生み出す社会的常識の欠如」などは決してオタクの条件ではないと考えられるからだ。ちなみに、

 

マニア【mania】@熱狂。熱中。夢中。

        A一つの事に異常に熱中する人。「切手―」

新村出編『広辞苑 第五版』岩波書店 1998,2002

 

マニアの定義は以上のようになる。ということは、オタクとマニアの違いはひとつの物事への執着によって社会的常識が欠如しているかどうかになってしまう。つまりこの定義の上では「切手オタクには社会的常識が無いが切手マニアには社会的常識がある」という破天荒な命題が成り立ってしまう。こんなにたくさんのオタクやマニアがいる中で、誰が社会的常識の有無を見極めているのかさっぱり見当がつかない。どう考えてもおかしい。

 Cの定義が、広義に用いられる際のマニアと同義語の「オタク」を指しているとしても『広辞苑』のオタク定義は問題なのだが、また別の問題も生じてくる。それはマニアと同義に用いられない狭義の「オタク」が説明されていない事だ。現在オタクというと、まずオタク系文化と密接に関係している人を指す事のほうが多い。オタク系文化というのは、序章で東浩紀氏の文章を引用したように「コミック、アニメ、ゲーム、パーソナル・コンピュータ、SF、特撮、フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャー」のことである。こういった文化を思春期以後も嗜好する人は例外なくオタクと呼ばれる。それでは、そういった人たちは皆、一つの物事にしか関心が無く、社会的常識に欠けていると言うのか?そのようなことは絶対に言えないはずである。編者は、趣味・嗜好で人を分類し内面まで決定するのは差別的だとの見地から意図的にこの事実を避けて定義をしたのであろう。しかし、世間での認知と辞書的意味が違っても、辞書に差別的な表現があれば世間でのオタク差別はまるで辞書的意味に裏付けされたかのようになってしまう。

 このように『広辞苑』におけるオタク定義は、現在広義・狭義に用いられる際の「オタク」という言葉の意味を正確に描写していない。何より痛々しい事実は、社会的常識の有無を問題にした場合、オタクと呼ばれる者、オタク系文化嗜好者にはそれが欠けるという解釈を生む可能性が大きい、というよりそういった解釈を助長してしまう点だ。

 私が実施した意識調査を回答する際、生徒の中には即座に電子辞書で何らかの語句の意味を確認する生徒がいたという。『広辞苑』ほか、辞書や辞典には想像以上にその定義への信頼が寄せられるものである。まだ20年の歴史しかなく、今もなお揺れ動くオタクという言葉の意味を正確に説明する事は困難な作業となるだろう。しかし「オタク」はある世代以上にとっては恐ろしく差別的ニュアンスを含み、またある世代以下では、ある意味で広義かつ狭義に用いられているのである。そのことを考えると、ある世代以上の人間にのみ共有される意味のみ掲載しているということを大変遺憾に思う。

 

第2章       時代の変化と連動するオタク世界の概要 

 

 先ほどは東京・埼玉連続殺人事件を境にオタク認識に大変差異があると書いたが、偏見の程度の他にもオタクに対する認識は世代間でまったく違う。オタク文化は消費文化である。視覚媒体メディアや家電の発達などに合わせ、絶えず変化を遂げてきた。ここでは、世代間の基本的な認識の差異などから、オタク文化の変遷を追っていく。

 

社会的嗜好の変化と新世代オタク 

 

 1995年以降のオタクたちにもっとも多く共有されている要素、それは「萌え」である。この語の起源には諸説あるが、一番有力だと思われるのは「燃え」の誤変換とされる説だ。これはオタクが虚構のキャラクターに対して抱く執着や愛情などを表現する際用いられる語で、動詞形に「萌える」などもある。初期は男性オタクの用いる語だったが、近年一般化し男女問わずオタクの必須スキルとしてみなされ汎く「なんだかいい」というニュアンスで用いられることもある。

それでは、それ以前のオタクはどういった志向を持っていたのか。大塚氏の論説を借りながら、哲学者・東氏の「ポストモダン論」を説明すると、1970年から1995年までは「虚構の時代」であった。(その前は「理想の時代」だが、ここでは触れない)サブカルチャーで言うと『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』など、年代記の形をとった「大きな物語」が虚構として残っていた時代であり、旧世代のオタクたちはその「大きな物語」を所有するため世界観を把握しようとしていた。このような文化の消費を大塚氏は「物語消費」と名付けた。

『エヴァ』もまた一見するとロボットアニメのようであり、初期はその伝統的な流れで「大きな物語」を描こうとしていたように見えた。そして、未だ明かされない謎を多く孕んだままの最終回は、多くのファンにとって物語の真相の究明を期待させるものだったようだ。しかし実際の最終回(とその前の回)では、期待された謎の解明はなされず、主人公のアイデンティティの揺らぎを描いた、アニメかどうかもよく分からないある意味哲学的なものだった。当時の『エヴァ』ファンの失望の様子を上手く書いたエッセイを岡田斗司夫氏が著書『オタクの迷い道』中に発見したので引用しておく。

 

      試しに身近なオタクにエヴァのストーリーを訊いてみるといい。誰もが、途中で判らなくなって言葉につまったり、感情的になったりする。これは今一番面白い遊びだ。このトンデモアニメ・エヴァの評価でオタクたちはまっぷたつに割れた。結婚詐欺にひっかかった女のケンカとそっくりでおもしろい。

     「ダマされた。あの人はただのウソつきだったのね。あの人が語ってくれた夢や希望やSF設定は全部ウソだったのね」(中略)

      そこへ制作者が「え~、あれは不本意なラストでした。本当のエヴァは来年発売のLDでしか見れません」と発表した。これには一同唖然。頼みの綱のアニメ誌にはもちろん提灯記事しか載っていない。オタクたちの受難は来年まで続きそうだ。                                              〔1996511

                          岡田斗司夫『オタクの迷い道』文藝春秋 1999年 38

 

単一の社会的規範が存在しない現在

 

『エヴァ』に「大きな物語」を求めていたオタクたちが、期待していたそれが与えられなかったことに失望したというのは容易に理解できようが「まっぷたつに割れた」のはなぜか。それは、1995年が東氏の言う「ポストモダン第一期」と「ポストモダン第二期」のちょうど境目、または「虚構の時代」と「動物の時代」の境目にあたるからであると言う。東氏はオタク系文化における彼らの志向と言う点でここに転機を見たのだ。オタク系文化においての「虚構の時代」とは「大きな物語」を虚構中に見出し、それを追及していた時代であった。ここで言う「大きな物語」とは「単一の社会的価値規範」のことで、「虚構の時代」の前の「理想の時代」には、それらが現実に存在していた。現実に無くなったそれを追い求めるため、虚構に執着したのが当時のおたく族である。哲学・社会学に関する確かな知識は無いので、東氏の文章を引用しておく。

 

     オタクたちが趣味の世界に閉じこもるのは、彼らが社会性を拒否しているからではなく、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られているからなのだ。

     そしてこの特徴がポストモダン的であると言えるのは、単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の大きな規範の林立にとって替わられるというその過程が、まさに、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ=リオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋落」に対応していると思われるからである。十八世紀末より二〇世紀半ばまで、近代国家では、成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、その動きを前提として社会が運営されてきた。そのシステムはたとえば、思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらのシステムの総称である。

東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社 2004年 44

 

私も生きてきた中で「大きな物語」を意識した事は無い。もしも正確に把握できていないと申し訳ないので、私自身の言葉で「大きな物語」の記述を試みると、それは「自分を取り巻く世界に対する理想」ではないかと思う。それを持つことは世界と自分の関係に対して積極的になる事かもしれない。

例えば60年代の学生運動はどうか。当時の学生は「体制」に不満を抱き、革命を起こすという新たな物語、理想を創造することに揃って命をかけたのだろう。この当時は現実社会に対して「大きな物語」が機能していたのだ。当然ながら、そのような心情ないしイデオロギーに私たちの世代が同調することは困難である。武装して大学の中を占拠し、殴りあう様子を見て「一体何のために何をしているのか?」といった具合である。たとえ「腐敗した社会体制に革命を起こすためだ」と説明されても、さらに「どうして?」と聞きたくなってしまうだろう。

浅間山荘事件に至るまでの連合赤軍の若者の様子を描いた『光の雨』という映画がある。立松和平原作、2001年の映画で、その冒頭の台詞はこうである。

「革命をしたかった。生きるすべての人が幸せになる世の中を作りたかった」

この映画は、「光の雨」という映画と、そのメイキング映画2つの映像により構成されている。かといって撮影ノンフィクションではなく、「登場人物を演じる若い役者」を演じているのは実際の俳優である。そして公開された映画のタイトルもまた『光の雨』だ。

要するにこの映画は二重の物語を描いている。40年前の日本の姿と、それを見る21世紀の若者。その間には「演じている同じ世代の若者の葛藤」というリアルな虚構が挿入されている。しかし原作は小説であるにしても、浅間山荘事件、連合赤軍、全学共闘会議…は実際の出来事だ。

なぜ、このような構造でノンフィクションを映像化する必要があったのか?それは、この映画が「大きな物語」を現実に求めない若者に、確かなリアリティを与えるためである。連合赤軍を演じ、彼らになりきろうとし、「どうしてこの人が死ななければいけなかったか」と葛藤する姿は、鑑賞者そのものなのだ。ほとんどの若い世代は、その一層の虚構が与えられていなかったら、きっと理解不能のままでこの事件に生きたリアリティを見出す事が出来ないだろう。

つまり、連合赤軍と現代の若者の間に1層の虚構を挿まなければ、40年前の出来事が現実味を帯びないほど「大きな物語」の有無は世界認識とって大きな差異なのである。

私的な経験だが、私は17歳のときに初めて映画『光の雨』を見た。しかし、当然彼らの「大きな物語」をそう簡単に理解できたわけが無い。大塚英志の本を読んだあと3回目に見たとき、やっと彼らの理想が切実に思えたのだ。

 

「動物化」とは? ―東浩紀的ポストモダン論―

 

さて、本題に戻るが「動物の時代」とはどういったものか。それは「単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理にも近いように、効率よく満足を得ようとすること」であると言う。東氏は「動物の時代」的なオタク文化の消費形態を「物語消費」に対して「データベース消費」と名付けた。

「動物化」とはそもそも東氏が、ロシア出身の哲学者アレクサンドル=コジェーブの言葉を借りて命名した言葉である。哲学的なことを言い出せばきりが無いので割愛するが、詳しくは東氏の著書をぜひ読んでいただきたい。簡単に言えば「動物化」とは「他者の存在無しに、楽しく、気持ちよく欲求を満たせられればそれでいい」という生き方をするようになることである。そういう価値規範の上で生きている限り、そこには「大きな物語」は必要ない。オタク系文化の消費形態においての動物化とは、まさに萌え至上主義の台頭に他ならない。東氏はそれを「薬物依存者の行動原理」と呼んだが、まさしく私がインタビューしたオタクたちは、自分のオタク道を「麻薬みたいなものだ」「一度入ったら泥沼だ」と言っていた。「げんしけん」中にも同じような台詞があった。

 しかし、間違えないで欲しいのは「動物化」がオタクの中だけで起こり、一般人は人間的でオタクは動物的だと言っているのではないということだ。『オタクから見た日本社会』というサブタイトルを見れば分かるように、日本社会全体におけるある種の変化をオタク文化の側面において分析するのが東氏のポストモダン論である。

 

転向点としての『エヴァ』 -多様性の時代-

 

1995年から1996年にかけて、ちょうど「虚構の時代」と「動物の時代」に片足ずつ足を踏み入れていた『エヴァ』は多くのオタクや一般人を巻き込んで文字通り社会現象を起こしたわけだ。

つまり、これは言い古された事だが、作品世界が時代の変化にマッチしていたのである。また、そういう背景もあってか『エヴァ』を契機にオタク人口が激増したらしい。 ちなみに1995年は大塚英志氏が「おたくの連合赤軍」と称したオウム真理教による地下鉄サリン事件があった年でもある。

 こういったわけで、哲学的に分析しても「虚構の時代」と「動物の時代」のオタク系文化消費に関する価値規範は全く違うのである。それを簡単に言えば萌えの有無云々ということになる。しかし、ヒトの感情において、10数年来の萌えの芽生えが、人類史上初だったなどと言うつもりは無く、むしろ萌えの芽生えは程度の問題ではないか、というのが私の意見だ。神経束に電流を流して発生する興奮が徐々に高まるエイドリアンの法則を思い浮かべてほしい。その興奮がある一定以上になったとき、ヒトは萌えを自覚するのではないかと思う。40代に入ってから初めて経験したはずの萌えが、幼いころ見たアニメーションのヒロインに対して抱いた淡い感情に似ていたと言う報告がある。

しかし、萌え追求をオタク系文化の消費の目的とするオタクは、明らかにそうでないオタクとは一線を画する。一般人の多く、または萌えないオタクは、萌えるオタクの世界を知ったときぞっとするだろう。他者の存在無しに欲求を満たす「動物的」な萌えを、そのプロセスをまったく知らない、経験したことが無い者は恐らく理解不能なものとして畏怖するのではないだろうか。そして畏怖は嫌悪に変わる。宮崎事件報道でおたく族嫌悪を植え付けられた世代が、新たに理解不能の萌えの存在を知ると、さらに嫌悪感を増してしまうケースがある。

さて、萌えに生きるオタクは何も第3世代以降だけではない。『エヴァ』の話に戻るが、第2世代オタク・本田透氏は著書『電波男』の中でこう言っている。「『エヴァ』の設定を覚えようという気にはならなかったが、ヒロインに萌えたのでファンサイトを運営していたら流行った。矛盾のある箇所もあったのに、他のオタクもストーリーなど気にせずそのサイトを楽しんでいた」

エイドリアンの法則では無いが、2次元のキャラクターに対する何らかの執着は決して新しいものではない。また第3世代以降のオタクにも、萌えではなく「大きな物語」追求型のオタクもいる。さらには両方を多層的に楽しむオタク、あるいはもっと違った消費形態をしていてもオタクと呼べる人はいるだろう。動物の時代を迎えた今、オタクに限った事では無いが、多様な価値規範の元で人々は生きているのである。

 

趣味・嗜好による人格定義の不可能 ―先行研究より―

 

それでは果てして定義は可能なのか、そして本文中での「オタク」はどういった人々を指すのか述べていきたい。ここではまず過去のオタク言説からいくつかの定義を紹介する。

 

@批評家、岡田斗司夫氏による定義(出典『オタク学入門』1996

  映像に対する感受性を極端に進化させた3つの(粋・匠・通の)「眼」を持つ

  高性能のレファンス能力を持つ

  飽くなき向上心と自己顕示欲を持つ

 

A精神科医、斎藤環氏による定義(出典『博士の奇妙な思春期』2003

  虚構コンテクストに親和性が高い人

  愛の対象を「所有」するために、虚構化という手段に訴える人

  二重見当識ならぬ多重見当識を生きる人

  虚構それ自体に性的対象を見いだすことが出来る人

 

オタク言説の数は多いのだが、はっきりした定義を載せている本はわりと少ない。さて、2つを比較していくが、とりあえず賞賛的か分析的かという差異は保留するとする。ちなみに岡田氏は1958年生まれ、斎藤氏は1961年生まれであり、両者ともにオタク的世代分類では第1世代である。

前節でも述べたのだが、『オタク学入門』をはじめ岡田氏による言説は、M事件をきっかけに甚だ悪くなった「おたく」のイメージを覆し、そうではない「オタク」の真の姿を啓蒙する事を目的としている。また、岡田氏の言う素晴らしいオタク像というのは、第1世代か第2世代(195060年代生まれ)の特徴をもつ旧オタクである。旧オタクとはすなわち、アニメにしろ特撮にしろSFXにしろ、虚構作品の製作段階の裏話やそれに関する知識を膨大に収集するようなオタクのことである。岡田氏の著書の中にある例えで言えば「ハリウッド映画『ロボコップ』は日本の特撮『宇宙刑事シリーズ』のパクリだ」と言って、その証拠をいくつも挙げたりするようなオタクのことだ。なるほど、まるでヘレニズム文化がシルクロードを通り日本に伝わったように、ある文化が伝播し発展する過程を発見して楽しむのは、何も考えずに文化を享受するよりよほど有意義であろう。情報化、視覚化の現代において、こういったオタクの感性というのは確かに「粋」であり「通」である。また創造する力も持っているのなら「匠」でもある。

しかしこの本が出版されて10年近く経った今、オタク系文化はすでに違った形に変質を遂げてしまっていた。

Aの4項目めに、一見して眉をひそめる文章があるだろう。これこそが現在(あくまでも第3世代以降にとって)オタク系文化の中核をなすと言っても差し支えない「萌え」を精神科医として分析したことを受けての定義である。もちろん岡田氏も、オタク論第一人者として萌えというトレンドを充分把握しているだろう。しかし、岡田氏自身が第1世代のオタクであるが故に、最近のオタクに対しては「オタク根性が足りない」と少々保守的になっているようである。あくまでも『オタク学入門』中での岡田氏の理想は第1世代的なのである。それに対して、斎藤氏の専門が思春期精神医学だということもあって、斎藤氏の研究対象はあくまでも若い世代のオタク系文化なのである。そういうわけで、斎藤氏の視野には主に第3世代以降のトレンドである萌えが入っているのだ。しかし前途のように、オタクのあり方が多様化した現在では物語消費も萌えも、オタクの条件とするには幾分狭すぎると思われる。

 

そこで、一番無難な、と言うよりも広範囲に渡る様々なオタクを一気に括ってしまえるのが『動物化するポストモダン』の冒頭文章なのだ。

 

オタク」という言葉を知らない人はいないだろう。それはひとことで言えば、コミック、アニメ、ゲーム、パーソナル・コンピュータ、SF、特撮、フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称である。本書では、この一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と呼んでいる。

東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社 2004年 8

 

東氏の定義は「そのほか」「オタク系」などという語句に曖昧なニュアンスを含ませる事によって、定義云々による議論紛糾の不毛さを昇華させてしまう。世代間の差やオタク系文化の多様性を考えた時、これほど有効な修辞はないと思われる。よって、この東氏の文章を、私の論文中でも借用させていただく。オタクとはそういった人々を指すのだと思ってもらいたい。

 

第3章 アンケート結果にみるオタク偏見の実態                               

 

前章では、オタクの語源から社会的認識の変遷、そして過去の犯罪報道との密接な関わり、世代間の差異について述べた。第2章では、2005年の6月~7月にかけて約440名の高校生を対象にして実施した意識調査に基づいて、現在の若い世代におけるオタク認識を探っていきたいと思う。なお、アンケート用紙の本文を章末に載せている。

 

ステレオタイプは実存するのか ―質問編―

 

アンケートではオタク群と一般人群を分け、同じ設問に対してオタク群と一般人群の回答を比較できるようにした。(丸数字は設問時の番号)

 

B   自分は常識的な人間であると思う

C   自分は性格が明るいと思う

D   自分はおしゃれに気をつかうほうである

E   自分は友達が多く協調性があると思う

 

特に上記の4項目は、一般に代表的なオタクのステレオタイプが「非常識」「暗い」「ダサい」「友達がおらず協調性が無い」といった点に特徴づけられることを受けて設置した質問である。この結果、オタク群の回答に一般人より「常識がない」「明るくない」「おしゃれに気をつかわない」「友達が多くなく協調性が無い」のパーセンテージが多ければこの4項目に関してステレオタイプの実在を裏付けるデータとなるし、一般人と同じかあるいはそれより少なければ、ステレオタイプを否定できることになる。 結果は以下のまとめを見て頂きたい。

 

全校生徒・オタク群(%)

 

A

B

A+B

C

D

C+D

B自分は常識的な人間であると思う

17

31

48

30

22

52

C自分は性格が明るいと思う

22

23

45

48

17

65

D自分はおしゃれに気をつかうほうである

10

33

43

33

24

57

E自分は友達が多く協調性があると思う

13

35

48

43

9

52

全校生徒・一般群(%)

 

A

B

A+B

C

D

C+D

B自分は常識的な人間であると思う

4

34

38

53

9

62

C自分は性格が明るいと思う

9

31

40

39

21

60

D自分はおしゃれに気をつかうほうである

9

32

41

46

13

59

E自分は友達が多く協調性があると思う

7

32

39

52

9

61

                      

                       

A:まったくあてはまらない

B:あまりあてはまらない

C:だいたいあてはまる

D:とてもあてはまる

 

集計方法

オタク群、一般群の項目別で(C+D)から(A+B)を引いた値をそれぞれ「Xo」「Xi」とする。

XoXiS(stereotype)として、S値が0以上ならばその事柄においてステレオタイプは存在しない、負の値になった時はS値の分だけ存在するとする。

 

氈F全校生徒におけるS

           B Xo4Xi24    S=42420

           C Xo20Xi20   S=2020

           D Xo14Xi18   S=14184

E Xo4Xi22    S=42218

 仮説を立てた時にはすべての項目において「ステレオタイプはない」という結論が出れば幸いだと思っていたが、否定できるのはA番の「オタクは暗い」というイメージだけになった。ところが次の結果を見てほしい。これは、3年の生徒のアンケート結果のみを同様に集計したものである。

3年生におけるS

      B Xo38Xi=30   S=3830

C Xo48Xi26 S=482622

D Xo14Xi18 S=14184

E Xo26Xi30 S=26304

 ご覧のように、年齢が上になればS値が底上げされる。ちなみに、1年生と2年生だけで集計した結果は以下のようになる。

 

。:1・2年生におけるS

B     Xo=-72Xi=20 S=-722092

C     Xo=-16Xi=14 S=-161430

D     Xo16Xi=18 S=16182

E     Xo=-43Xi=20 S=-432063

 

このように、3学年全体で集計した場合、4項目のうち「暗い」を除くオタクの特徴は、自覚に基づく判定としては確かに存在するという結果になった。しかし、12年生と3年生を比較してみると、両者のS値の差はたいへん大きかった。12年生では、4項目すべてにおいてS値が負の値になった。それに対して、3年生ではDとEを除いてS値が正の値である。あたかも紋切り型に対する反撃的なリアクションを示しているようである。

以上の点から考えて、現役の若いオタクたちは世間で広く流通しているオタクのステレオタイプを、年齢が上がるにつれて脱出していくのではないかと予想される。項目別で多少の違いはあるものの、だいたいの数字はその流れにのっている。

また、12年生のBのS値が非常に小さかったことは興味深い。インタビューで、高校2年生の生徒が「私たちの世代以下の子供が一番マナーを守れていない」と言っていた事実に即するからである。確かに3年生ではBのS値は+8をとっている。より若い世代の偏見のほうが激しいという報告も、このS値を見ればなんとなく納得できてしまう。また、前章で『広辞苑』の定義が差別的だと非難したことが、なんだかうしろめたく感じられるような結果である。12年生や全校生徒のS値から言えば、確かに「オタクは一般人に比べて社会的常識を欠く」という傾向を肯定できるからだ。

しかし、忘れてはならないのは「年齢が上がるとともにS値が回復する(改善されていく)」ということだ。人間、年を取るとともに常識をわきまえていくのは世の常であろう。

オタク共同体という特殊な世界で趣味を謳歌する彼/彼女らであれば、なおさらそういった傾向は大きいであろうと思われる。なぜならば、そういった世界での秩序を教えられる機会は、実際のところ充分と言えるほどは無いからである。

今回、事情により1年生と2年生を分けることが出来なかったのだが、それでも上学年と下学年でこんなにもS値に変化があったことに驚きを隠せない。「ステレオタイプが無い」と言い切ることは出来なかったが、ひとつ「オタクには暗い人が多い」というイメージだけは否定できそうなデータが得られた。奇しくも全学年のCのS値が0になったことは、多くのオタクにとって少しは救いになるのではないだろうか。

 

イメージの内訳 ―記述編 ―

 

さて、前節ではステレオタイプが実際にあるのかどうかをデータ的に分析してきたが、第2節ではさらにいかがわしい内容を扱う事になる。つまり、一般人がオタクに対して抱いているイメージを具体的に見ていくのである。この意識調査では一般人だけを対象にした2種類の自由解答欄を設けた。設問は記述式と図画式の2種類に分けた。

 自由解答欄に記入してくれる生徒などそんなにいないと踏んでいたのだが、予想に反してこの欄はたいへん濃厚かつ豊富な反響を招いた。集計結果も予定より大幅に有意義なものとなったので、1節を割いて考察を進めたい。

右の表は記述欄の回答からキーワードを抽出し事柄ごとに集計した票数を順位付けしたものである。キーワードの後にあるアルファベットはその項目の属性を表す。

: emotion …(一般人からオタクへの)感情

: inner    …内面

: object   …嗜好対象、アイテム、グッズ

: looking   …外見

: behavior  …行動、振る舞い

: exception …上記以外

以上の項目別に左記の票数(+少数意見26票)を分類すると以下のようになる。

(): =4    (): =119

(): =101   (): =78

(): =63    (): =39  

 

この数値を使って、一般人がある人物をオタクかどうか判断する際の基準が分かる。Eは感情なのでここでは排除すると、1番の判断基準は「内面」2番が「嗜好物事、アイテム、グッズ」3番目が「外見」4番目が「行動、振る舞い」となった。

内面・嗜好品・行動についてはヴェネチアビエンナーレでの森川嘉一郎による「おたくとは一連の文化や行動様式を共有する人格である」という記述にぴったりあてはまる。見事な表現としか言いようが無い!しかし全体の20%を占める。「外見」は物議を醸しそうだ。たしかに秋葉原の群集と渋谷駅前の群集を比較した写真がビエンナーレカタログに載っている。全体的に考えて、多少なりともオタクファッションがあることは確かである。価値基準の違いでおしゃれよりもサブカルチャーへの消費欲が大きくなれば、外見上一般人と差が出るのも無理が無かろう。何しろオタク向けコンテンツは高価なのだ。しかし外見に関する記述は例外なくマイナスイメージなので、偏見と言えば偏見である。とはいっても他の回答もほとんどがマイナスイメージであり、そもそも1位が「きもちわるい」なので、総合的に考えてオタクが被差別階級である事は隠しようの無い事実である。

 

 

 

「オタク」のイメージ(全校)

順位

 

票数

1

きもちわるい     E

43

2

ひきこもり      I

37

3

フィギュア      O

36

4

好きなことに熱中   I

35

5

眼鏡         L

24

6

マニア・マニぃ    B

22

7

アニメ        O

19

8

マンガ        O

14

8

デブ         L 

14

8

暗い         I

14

11

ゲーム        O

13

12

一つのことしか見えないI

11

12

コスプレ       B

11

14

パソコン・ネット   O

10

15

リュックを背負う   L   

9

15

コレクター      B

9

15

長髪         L

9

18

不潔         X

8

19

詳しい・物知り    I

7

19

汗っかき       L

7

19

キャラクターに恋してしまう I

7

22

好きなことにお金を使うB

6

22

秋葉原・アキバ    X

6

22

友達が少ない     I

6

22

電車男        X

6

26

ださい        L

5

26

現実逃避       B

5

26

にやにや・一人笑い  B

5

26

臭そう        X

5

30

髪がぼさぼさ     L

4

31

アニメのポスター   O

3

31

部屋が汚い      X

3

31

萌え         X

3

31

アニメイト      X

3

35

ガリ         L

2

 


また、「好きなことに熱中」「マニア」「一つのことしか見えない」「コレクター」などの記述が多かったのは、マニアと同義の使用例が普及していることを示す。中には「誰もがみんなオタクだと思う。スポーツ・勉強・趣味にしたって(そのことに関して)オタクにならないと伸びないから。(全文)」というような記述もあった。しかし、やはり全体を見渡せばオタク系文化と結びつける回答の方が圧倒的に多かった。

 その他、ランキングで特に気になったのは「ひきこもり」と「フィギュア」の票数の多さである。ひきこもりがメディアに取り上げられた際のイメージが「ずっと家にいてゲームやネットをしている成年」のような感じだったので、オタクと結びついたのかもしれない。フィギュアに関しては、「成年男性が美少女の人形をかしずく」といった視覚的、感覚的印象のどぎつさが原因か。メディアに奇怪な性癖として取り上げられる事も多い。しかし奈良女児誘拐殺人の際大谷昭宏が発した妄語が、何らかの影響を与えたのではないかという推測も出来る。

 

名言、あるいは罵詈雑言 ―記述編―

 

 たくさんの回答の中には、キーワードに分類してしまうのが惜しいメッセージ性の強いものが多数存在した。ここでは、一般人の中にもオタク偏見に関して疑問の声を投げかける人もいるということを知っていただき、多様な見解を提示するため、その一部を公開したい。

 

  「イメージなどない。普通の人もいれば異常な人がいるのは当たり前。(中略)現実と空想の区別が出来ないごくわずかなオタクが事件を起こすと思う。」

オタク文化の責任かどうかは別として、オタクによる犯罪が皆無であるとは言えない。そのことを踏まえたうえで「いろんな人がいて当たり前」と言う彼の態度は評価すべき冷静さおおらかさである。

  「おたくには色々いると思うが、中には危ない人もいる」

同上。

  「明るい人もいるけど。」

オタクは暗いというステレオタイプに対する反論。この生徒にはきっと明るいオタクの友人がいるのだろう。

  「自分の欲求に素直な人。」

オタクの執着を「素直」と解釈している点が彼らを人間的に捉えている証拠である。

  「別に自分の好きでやっていることなのでいいと思う。」

オタク文化=悪だと主張する評論家さえおり、メディアがそれを面白おかしく取り上げる空気の中で、こういった当たり前の意見の重要性は大きい。

  「まあいいんじゃねえ?」

どう思うかというような主観を排除して「まあいい」というのは彼らの自由を尊重してこそ言えることである。私もこの言葉に完全に同意する。

 

 さて、いい意見ばかり選んでは不公平なので、端的な差別発言も載せておこう。

  「キモい。一言『キモい』としか言いあらわせない。」

ちなみに、ランキング1位は「きもちわるい」なのだが、『広辞苑』の定義によると、差別とは「正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと」である。辞書的意味からしても、根拠のない「オタクきもい」は差別と呼べる。

  「オタクはいきすぎだと思う。絶対なりたくない。」

「いきすぎ」の詳しい記述が欲しかったのだが、おそらく法に触れそうな表現がアンダーグラウンドではびこっているような事を指すのではないだろうか。しかしオタクのすべてがそういった激しいものを嗜好しているわけではない。

以上のように、高校生440人の回答には様々な意見があった。その中でも偏見保有者は確実に多数存在するが、中立の立場で冷静視している人も、また存在する。私もそのうちの一人として偏見を調査しているわけだ。この論文が偏見保有者の目に触れる際には、少しでもそれが改善されればいいと思う。後の章では、被差別経験のあるオタクの苦悩について触れるつもりだ。

 

画一的なオタク像 

 

 図画コーナーには合計114点ものオタクを描いた作品(?)が寄せられ、数の多さに閉口したが最終的にはすべてを集計した。まず、描かれた人物の男女比は男性が94%、女性が3(残りは性別不明)であった。実際のオタクの男女比はほぼ1:1と言われ、実施したアンケートでは、むしろ女性の比率のほうが多かった。以上の点から、最初のうちは男性オタクの方が女性オタクよりも認知されているらしいと考えた。しかし、男性オタク文化の代表格である「ギャルゲー」という単語と、それに対応する女性オタク文化の「やおい」と言う単語の認知率はギャルゲーが41%、やおいが40と大差ない。(それよりもこの認知度の高さに驚きである)まったく知らない人の割合はギャルゲーが41%、やおいが55%と、やおいのほうが高いが、91%の差を生み出す理由にはなり得ない気がする。

そこで考えられるのは、男性オタクの方が女性オタクより、視覚的印象が強く残っているということだ。視覚イメージがなければ図画描写はしにくい。つまり、図画コーナーにおいてのオタク像は、視覚で得た情報やイメージが如実に現れるのである。

 114枚の傾向から言えば、複雑なところまで描かれた人物像ほど画一的なイメージになることが多い。視覚由来の情報が画一的であること、これが意味するのは何か。

 

マスメディアの報道がオタクステレオタイプを形成した

 

 言い古された推論である。しかし今までに確固とした証拠はない。今ここにその証拠を並べようではないか、というのが本論の目的である。

 前の続きだが、マスメディアにオタクが取り上げられる際、その人物はたいてい男性である。女性のオタクがコスプレーヤーとして露出されることは比較的多いが、イメージ記述において「コスプレ」という回答は全体の2%しか存在しない。考えてみれば当然で、そもそも「おたく族」と言う単語が生まれたのはロリコン雑誌の上だったし、一般に普及した宮崎事件の時も、あくまで「おたく」は男性だったのだから。そう言う意味で、メディアがオタクという単語を悪い意味で引きずっている際は、必ずそれは男性を指す。オタク揶揄される時も大概そうだ。

 つまりここでは、視覚的情報においてメディア露出度と一般のイメージ蓄積度が一致しているのである。性別に関して以外にも多くの視覚的イメージについてこれが言える。図画コーナーには、メディアがこぞって取り上げるような「秋葉原や夏冬の幕張メッセにはいるかもしれないが、岡山市内でもここまでは見かけまい」といった人物像が多数描かれていた。ちなみに、アンケートを実施した私の在籍校は岡山県の極東に位置する。

以上の点から考えて、テレビや雑誌などの視覚媒体メディアがオタクのステレオタイプ形成したと断言できる。しかし、メディアが実在のオタクを取材して作った映像なら、ステレオタイプではなく真実なのではないかと思う人もいるだろう。

そうではない。イメージの蓄積とはそのような単純なものではない。

 

オタクへの悪印象が生まれる瞬間を再現

 

想像してみてほしい。あなたは暇つぶしにテレビを見ている。コテコテのオタク、つまり肥満・黒ブチ眼鏡・趣味の悪い汚いトレーナー・ペットリした黒髪…の30代後半の独身男性がテレビに映っている。その番組では「ちょっと変わったオタクの世界を探るコミケ大特集」などと言う企画をしているらしい。コミケ会場にはマンガ同人誌や等身大フィギュアが並び、普通ではない格好をした女性がにこやかに笑い、それを多くのカメラが取り囲んでいる。男性は、取材陣の「今日はいくら使いましたか」という質問に「全財産です。それでもこれが生きがいだからいいんだ」と答える。

その様子を見てあなたはこう思うだろう。「わけわからん。オタクキモい」と。

特集の最後にはコメンテーターが「スゴい世界ですね。こういった世界には表現の規制は少ないそうです。青少年への影響が懸念されます」などと当り障りのない程度のことを言うだろう。「ふぅん」といった程度の感想しか抱かないままテレビをけすあなた。

 それでもあなたの心の中にははっきり嫌悪感がインプットされる。その翌日ぐらいにさほど親しくない友人たちがコミケで売られていたのと同じB5サイズの冊子を見て、よく分からない話を興奮気味に話していたら、「こいつらもしかしてオタクなのか、キモいなぁ」と思ってしまうだろう。

 こういった経験が2、3回繰り返されればいっそうイメージは沈着するだろう。

 例にあげた番組はフィクションだが、昨今メディアにおいてこういったオタクの扱い方は多く見受けられる。たとえ制作者に「オタクってヘンでしょ、普通じゃないでしょ」といった感情を煽る意図は無かったとしても、結果そうなってしまうことのほうが多い。

 外見でも内面でも、ステレオタイプではないオタクは大勢いる。そこまでは簡単だが、ステレオタイプを取り上げてレッテル貼りを促す事によって、オタクだと認識した誰かにそのレッテルを貼ってしまう可能性は大きい。あなたがそうでなくても、過去の被差別経験からレッテルを貼られることを極度におそれるオタクは大勢いる。

 これが犯罪報道となるとまた新たな問題に発展するのだが、それは次の章で明らかにする。

 

第4章 被差別から避差別へ、現役オタクの告白                                

 

 20055月から7月にかけて、高校生の現役オタクに全4回に渡るインタビューを行った。第1回、第2回が女性2人、第3回は男性3人、第4回は男性と女性それぞれ一人ずつを対象にした。

 その際の偏見に関する話し合いがたいへん有意義なものになったので、巻末にその一部を載せておく。

 

インタビューより

 

1回  参加者:女性オタク2人

 この回では男性オタクに対して否定的な女性オタクに話を聞いた。女性オタクの一部には、自分がオタクだということで差別された経験から悪いオタクの印象を作っているのは男性オタクだとして非難する人もいるようだ。世間のオタクイメージが男性であるのは事実だが、こぶまきさん(仮名)は、かなり感情的に男性オタクを嫌っており、それは一般人の程度を遥かに上回っていた。

しかし、第1回目のインタビューから過激な主張を聞き女性オタクはみなそう思っているのではないかと憶測してしまったが、実際はそうではないらしい。こぶまきさんが「現実と虚構を混同している萌えオタ」の例として奈良女児誘拐殺人の犯人を挙げた事から、彼女もまた一部メディアの犯罪報道に強く影響を受けていることがうかがえた。一方、もう一人の女性がんもどきさん(仮名)は、「オタクといっても一概に人格の特定は不可能」といった旨の冷静な発言が多かった。

 

2回 参加者:女性オタク4人

この回でもやはり、フィギュアやコスプレ強要願望などを例にあげ、彼女たちは男性オタクへの嫌悪を顕にしていた。「行きすぎたアキバ系と一緒にされたくない」という、前回と類似した発言もあった。また、思春期を迎えたばかりの年頃、つまり中学1年生ごろにはオタク群/非オタク群の区分は出来るらしく、だいこんさん(仮名)は「ギャル系の女の子とオタクの女の子は分かれている」と語った。

1・2回を通して、女性オタクの偏見に関して言えば、彼女らにのみ向けられる蔑称「腐女子」は存在するものの、腐女子だからというよりも、オタクとして偏見される事がほとんどであるらしい。それゆえに極度に男性のオタクに対して偏見を抱くケースもある。しかし、腐女子もオタクの一種だという認識は、ほぼ全員にあった。

3回 男性オタク3人

 アニメオタク、アイドルオタク、雑種オタクの3人に話を聞いた。まず女性群と比較して言える事は、男性群のほうが明らかに偏見の目を恐れ、怯えていたことである。からしさん(仮名)に至っては、インタビューが終わった後、急に不安げな面持ちで「今日は色んなことを語ったが、これを境に縁を切ろうなどと思わないでくれ」などと言い出す始末だ。確かに世間の目は男性のオタクに向かうだろうから、差別に過敏になるのも仕方があるまい。

 また、積極的に典型的なイメージから脱出したいという思いもある。それはオタクをやめる事ではなく外見などの問題であるらしい。また、よくオタク批判の際用いられるフレーズに「2次元にしか興味がもてず、現実の女性に興味が無い」とか「虚構のキャラクターの要素を現実の女性に求める」といったことがあるが、現実の女性に興味が無い訳ではなく、また彼らにとって萌えキャラと現実の女性は全く別物であるらしい。さらに、実際にあからさまな差別を受けた経験が無くともオタクをカミングアウトすることのタブー性は彼らに根付いており、一般人からの一言「きもちわるい」が最悪だということだ。また、『電車男』ブームについてはかなり慎重な姿勢を見せている。3人のうちのひと、からしさん(仮名)は匿名掲示板サイト『2ちゃんねる』の利用者であった。

 

4回 男性オタク1人、女性オタク2人

    この回では男性、女性をまじえて偏見問題に関しての意見を聞いた。結果分かったことは、必ずしも男性オタクと女性オタクが対立しているわけではないということだ。また、オタク集団でしばしば見受けられる同属嫌悪についての話が多く聴けた。それは他のオタクがオタク全体のイメージを悪くする事により、自分自身にその偏見が降りかかる事をおそれているからである。また、コスチュームプレイなど、近年のオタク活動が人目に触れる機会が増えているため、その際のマナーが守れていないことが原因で「オタクは非常識だ」という認識が広まる事も問題のひとつだと彼らは捉えている。マナー問題はオタクの低年齢化と深く関わる問題で、思春期に差し掛かりオタクとして目覚める中学生あたりの年代のマナーが一番深刻だという事だ。

     また、理解しあっているオタク同士は、たとえ性別が違ってもお互いを尊重し合えるようである。この回で話を聞いたたまごさん(仮名)とからしさん(仮名)は普段から面識があり、偏見問題に関しては同じオタク世界に生きるものとして萌えオタと腐女子の垣根を越えて真剣な討論を交わしてくれた。

 

「俺たちに人権を与えてください」

 

これは第4回目のインタビューでのからしさんのひとことである。大げさに聞こえるかもしれないが、たしかに今でも、被差別民であるオタクは数多いのだ。アンケートでオタクイメージ1位は「きもちわるい」であった。これは、おそらく若者のコミュニケーション上最悪のレッテルである。個人がきもちわるいか否かについては何とも言えないのだが、趣味や嗜好を基準にして「きもちわるい」と言われている点は、彼らにとって一番辛いのではないだろうか。それは4回のインタビューを通して彼らに共通する事は、彼らにとってオタク文化が生きがいであり人生に欠かせない趣味であるからだ。その良し悪しは誰が判断する事でもないし、それを止めるものは誰もいない。ひどくても遠巻きに見て「きもちわるい」と思うだけである。それでもまだ改善されたほうなのかも知れない。

 15年前から比べると、オタクを取り巻く状況は確実に良くなってきている。1週間に新聞かテレビで「オタク」という単語を目にしない週はほとんどなく、しかも大半がプラス評価である。

 しかし犯罪報道に関してのみ、状況は悪くなる一方に見える。これについては後の章で詳しく述べるが、偏見要素として一番コアな「犯罪予備軍」というイメージが強ければ、どうしてもマイナスイメージが勝ちやすくなる。オタク報道の歴史から考えて、特に男性のオタクにとって、いまだ生きづらい世の中なのではないだろうか。

 

同属嫌悪渦巻く閉鎖共同体

 

 オタク世界では同属嫌悪という言葉をよく耳にする。女性のオタクによる男性オタクへのバッシング、またその逆、生噛りのオタク知識を持ったものが濃いオタクを嫌悪するケース、マナー違反者に対する極度の反感など、その全てが同属嫌悪によるものであると言える。

 つまり、これは一部の者が作ったマイナスイメージがいずれ自分に降りかかる事を懸念しての恐怖なのである。例えば女性オタクは、他の女性オタクの萌えトークの声のトーン、内容に関して非常に厳しい目で観察している。一般人に不快な印象を与えているのではないかと、常に傍ら痛い思いでハラハラしている女性オタクも少なくない。対して男性オタクは女性オタクの萌えトークに関してあまり関心が無い。それは、女性オタクのイメージが男性オタクにフィードバックされる心配はあまり無いからである。 また、同属嫌悪を理由にしながらも、本当は他のオタクをスケープゴートにして憂さ晴らしをしているケースもある。彼/彼女らの受けるストレスの大きさも考慮しないでもないが、オタク全体の偏見問題の解決を考えると、現在内ゲバを起こすのはおそろしく非建設的であるように思われる。

 オタク当事者がオタク問題について公に語る機会は少ない。今回のインタビューのような特殊な場面でもない限り、彼/彼女らに許される事と言えば友人同士での愚痴りあいか匿名掲示板への書き込みぐらいである。そういった、オタクしかいない閉鎖した空間だからこそ、同属嫌悪が生まれるのだろう。オタク差別をしているのは一般人だけではない。むしろ生み出しているのは元オタクなどの被差別経験者であるという。やはり、彼らの偏見に対する姿勢がマイナスになる原因のひとつは同属嫌悪であるらしい。

 

「オタクだって一般人なんですよ」 ―文化相対論から見るオタク―

 

 これは第4回目のインタビューでたまごさん(仮名)が言った一言である。「オタク/一般人」という区分がそれを表しているように、オタクは何か特殊な人間であると思われがちで、またオタク自身も自らを何かしら特殊に思われる点を好んで主張する。それは一種のニヒリズムだとか、スノビズムだとか言われる。実際に彼らは、コミックマーケットや同人誌流通ルートなどの特殊な秩序を作り上げ、独特の世界を築いてきた。オタクに共有される一定の価値観も、やはり非オタクにとっては特殊である。しかし現在すでに彼らの文化圏は決して少数派ではないのだ。2004年夏のコミックマーケットは51万人の参加者を迎えた。オタクが共有している文化も膨大で、海外伝播も顕著で、一部の上位文化については一般世界とのボーダーもしだいに曖昧になってきている。

 ここまで数が増えると、彼らの文化を「特殊」だとか「変わった世界」だとか言う理由は無いように思う。今やオタク文化は日本を代表するサブカルチャーなのである。しかしオタクと非オタクでは共有される価値観や消費行動が違っている場合が多いので、非オタクからしてみれば「変わった人」に見えるというだけの話だ。つまり、オタク文化というのは、非オタクにとって身近な異文化なのである。

彼らは同じ日本に生まれ(外国人もいるが)同じ環境に育ちながらも趣味・消費価値観・美意識など一部の範囲で異文化を共有しているのである。『げんしけん』初期の咲は、彼氏のオタク趣味を「理解できないから止めさせたい」と言っていたが、そのあとには理解は出来なくても価値観を尊重する事で関係を維持することができた。

文化相対論という言葉があるが、まさしくこのことである。オタク文化が人類の普遍的価値を犯すものだとはとても思えない。これは、文化相対論の名のもとで大いに保護されるべき対象である。もしも多くの人が偏見に侵されることなく異文化として差異を尊重できていたならば、「きもちわるい」が1位にはならなかったかもしれない。戦後、様々な若者文化が台頭し消えていった。そのなかでオタク文化は30年以上の歴史を刻もうとしている。オタクの歴史が生まれたのが日本であることは偶然ではない。アニメーションの生地アメリカでも、常に日本のオタク文化がサブカルチャーに影響を与えてきた。今でもそうである。だから凄いとは言わないが、いかがわしい部分も含めてオタクっぽいものの総体は一種の文化と呼ぶに値するのである。

そして、彼らが不当に被っている偏見は解決されるべき問題なのである。

 

5章  犯罪報道に見るマスメディアによる偏見形成

 

 さて、本章では今までの章を踏まえた上で、あらためてマスメディアとオタク報道の関係を論じていく。扱う事象も最近のものとなり、犯罪に関しては裁判が続いているものもある。そういった事件を論文中に扱うのは不謹慎ではあるが、避けては通れない部分なのでご了承いただきたい。なお、被告・容疑者の実名は年齢に限らず記載しない。

 

奈良女児誘拐殺人事件(2004年)

 

 200411月、奈良県の女児が誘拐・殺害されるという事件が起きた。犯人は同年1230日に逮捕された。

この事件の報道では、大谷昭宏というコメンテーターの発言が騒動を招いた。彼は犯人逮捕前から犯人はフォギュアオタクであると主張して「フィギュア萌え族」を命名し、ワイドショーやスポーツ新聞の記事上で児童ポルノの規制を訴えた。ここでは敢えて、当時の記事の一部を引用しておく。

 

      もちろんいまの段階で犯人の動機は不明である。だが、私はこれらの状況からどうしても最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう。なぜ萌えというのかは、諸説あって不明だが、要は若者たちが生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ。そこにある特徴は人間の対話と感情を全く拒絶しているということである。(中略)もちろんまだ犯人像が絞れないいまの段階で、今度の事件の犯人を直接、この萌え現象と結びつけることはできない。ただ、解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったということは間違いない。

          日刊スポーツ・大阪エリア版「大谷昭宏フラッシュアップ」20041123日掲載

 

大谷氏の発言に根拠がないことは誰の眼に見ても明らかである。彼がこの件に関してテレビ番組中でオタク批判をした回数把握できた分だけで20053月までに9件で、そのうちすべてが朝日放送系のテレビ局であった。この他に、この事件をうけて児童ポルノとオタク系文化を結びつけて報道したと思われるテレビ番組は4件あり、内訳はテレビ朝日2件、関西テレビ1件、大阪毎日放送1件、とある。細かなものまで把握するのは困難であるが、拾えただけでもこれだけある。       

また、これに新聞記事を入れるとさらに数が大きくなると予想される。この事件への人々の関心は非常に高かったので、事件自体扱われた回数が多いのは当然だが、そのなかでも解決策として児童ポルノの規制を呼びかける発言が非常に多かった。今回は、そのあたりからオタク批判に乗り出したメディアに注目していく。大谷氏に関しては当然教養のある知識人がこのような発言をまともに受け取るはずがなく、彼特有の奇癖としてさらりと流していたように見えた。年が明けてからそっと石を投げるような批評家もいた。大谷氏は数年前、教育問題に関しても同じような一面的報道をしていた、との事である。

 

NGO-AMIによる大谷氏への公開質問状

 

 数多い大谷氏への抗議の中ではこれが有名である。AMIとは、マンガを中心としてアニメ、ゲームなどの表現規制について社会的活動をしているNGOである。このAMIが、先ほど引用した「大谷昭宏フラッシュアップ」に関して公開質問状を日刊スポーツ編集部に送ったのだ。公開日は20041227日となっており、犯人が逮捕される3日前である。質問状の概要は「この記事は想像に基づくもので、誤った認識の流布させるとともに事件を扇情的に扱っており被害者家族の感情を害するので、どういった真意でこのような記事を書いたのか7項目で質問したい」というものであった。その他にも過去の大谷氏の発言と比較して、今回の事件に対する報道の態度はダブルスタンダードにあたるとの批判や、同年のヴェネチアビエンナーレの話題に触れるなど、ありとあらゆる視点から大谷氏を論破していた。しかし文面には大谷氏への誠意と敬意をきちんと表しており、主旨も「真意を伺いたい」というものだ。決して「発言を撤回しろ」というものではない。さて、この質問状に大谷氏はどのように答えたか。

 

その手の嗜好を持つ方たちから事務所あてに抗議の電話やメールが殺到。加えて配達証明つきの公開質問状まで送りつけられてきた(中略)それでも彼らは人の趣味嗜好に言いがかりをつけるなと言い張るのだろうか。警告を発するものには一方的に質問状を送りつけるのだろうか。

「奈良県少女誘拐殺人事件のまとめ」より一部  http://matome.tank.jp/nara/  

 

 また、2005年1月5日、テレビ朝日「やじうまプラス」では大谷氏AMIを「変質者の人権を守る団体」と発言したという記録が残っている。結果として大谷氏はこの質問状に答えなかった。しかし、そのことで大谷氏を責める者は誰もいないだろう。大谷氏はおそらく、論理的にこの質問所に答えるだけの論考を持っていない。そもそも大谷氏の発言に本気で怒ったオタク評論家はあまりいない。せいぜい「こんなバカなことを言っている自称ジャーナリストもいますね」と皮肉って見せる程度で、決して真っ向から相手にしていなかった。大谷氏ような軽薄な報道態度に対して真剣に反論するのは恥ずぶかしい、という認識でもあるのだろうか。しかし、掲示板やブログを見る限り個人レベルの怒りや憤慨は相当多かった。

 では、大谷氏の発言を含めこの事件にまつわるオタク報道を見た視聴者も、同様に冷静に受け流しているのか?嘆かわしい事だが、おそらくそれはありえない。

 

秒刻みの大鏡・ネット掲示板

 

犯人逮捕は1230日である。それ以前の「2ちゃんねる」ではこんな書き込みが見られた。

 

44 :カタログ片手に名無しさん [] 04/11/23 18:06.

(中略)
 それにしても、今度の女児誘拐殺人死体遺棄事件の犯人が、
 マスコミが涎を流して喜びそうな典型的なキモヲタ君だったとしたら
 本当に圧力掛けられて潰されるかもね。

49 :カタログ片手に名無しさん [sage] 04/11/25 07:13

冬コミ前に犯人が捕まったらビッグサイトの前で

「ここに20万人の〇〇〇〇がいます!」とバカレポーターが絶叫するんだろうな。

90 :カタログ片手に名無しさん [sage] 04/11/30 12:39

>>84
萌えは自称ジャーナリスト大谷昭宏が思いつきで喋ってる単なる妄言。
だいたい大谷は酒鬼薔薇聖斗の時には
「犯人が捕まらないうちから根拠のない犯人像を作るべきでない」と
いっていたくせに、今度の奈良の犯人像推理合戦への意気込みはどうだ。
マスコミは宮崎事件も酒鬼薔薇事件も、事前の予想で全て間違えていたが、
その過ちを繰り返す神経がわからない。
よほど他人の不幸は金になるらしいな。

 

 このスレッドでは、主に30代以上と思われるオタクたちが過去の偏見の歴史を顧みて現状を話し合うものであった。2ちゃんねるをはじめインターネット上での大谷氏の発言に対する反発は甚大であったが、犯人逮捕前は、44のように「もしかしたらオタクの仕業では」と思ったオタクもいたのである。

そもそもこのスレッドはM事件時のマスコミのオタク報道を振り返る主旨であった。しかし、44が「それにしても…」で奈良の事件の話題に触れたのは全く不自然な流れではなかった。M事件世代のオタクにとって奈良女児誘拐殺人の際のオタクバッシングは、まさしくM事件のときのそれを髣髴とさせるものであったのだろう。

 この「ここに20万人の〇〇〇〇がいます!」というのは、M事件報道のピークにテレビ局のアナウンサーが、コミックマーケットに集うオタクたちを指して高らかに叫んだ台詞である。〇〇〇〇には犯人の実名が入る。当然そのアナウンサーは批判の的になったのだが、この台詞に象徴されるような「オタク=犯罪者」というテーゼをマスコミが持ち出すことに、彼らは非常に敏感である。犯人逮捕前のこの2ちゃんねるをみると、彼らは同胞から第2、第3Mを出す事を非常に怖れているようである。

 それでは、一般において一連の奈良・オタク報道はどの程度浸透していたのか。全校生徒に実施したアンケートでは、奈良女児誘拐殺人を知っていると答えた全体の73%のうち、実に47%が「この事件の犯人はオタクだったと思う」と答えたのである。この数字は大きい。

 実際の犯人がオタクかどうかを安易に判断することはできないのだが、ギャルゲーやフィギュアを所持していた事実は無かった。2ちゃんねる利用者でもなかった。それなのに、事件を知る47%もの高校生に犯人をオタクだと判断させたのは一体何だったのだろう。

犯人逮捕前などは2ちゃんねるから関連づけやすい書き込みをわざわざ探してきて、「インターネットの匿名掲示板にこのような書き込みがあった。事件との関係は?」などと言ってアニメの美少女の画像を夕方のニュースで流していたニュースさえあった。犯人が逮捕されると、彼がフィギュアなど持っていなかった事実が明らかになった。すると多くのジャーナリストは「犯罪を促進するから、児童ポルノを規制すべき」と口を揃えて言うようになった。

とりあえず、このアンケート結果から若年層においてはかなりこの一連の報道がオタクと犯罪の認識に影響を与えたといえる。

 もちろん誰も「犯人はオタクだ」とか「オタクだから犯罪者だ」などと明言したりしない。そういうことを言ってしまった大谷昭宏氏の場合、BPO宛に彼への批判が20051月の1ヶ月で50件寄せられたと言う。

 しかし前章でも述べたとおり、偏見というものは事実の集積と確かな論理によって形成されるものではなく、どうしようもないイメージの積み重ねにより深く根付いてしまうものである。

アンケートでは、「オタクは犯罪を犯しやすいと思うか」という問いに対し、全校で48%が「そう思う」と答えた。過去にオタクによる犯罪が無かったとは言えない。確かにあった。しかし、オタク人口全体の犯罪発生率が一般人におけるその割合を越えるということを裏付ける調査など無い。それにもかかわらず48%もの高校生がオタクは犯罪を犯しやすいと思っているのは、マスメディアの犯罪報道においてオタクの犯罪のほうがより騒がれやすく、また幼女が殺害される事件の犯人はオタクにされやすいからである。20056月の女性監禁事件の際には、犯人がコスプレ会場で知り合った女性を監禁していた事実が発覚すると、そのことだけをわざわざ夕方のニュースで取り上げるニュース番組があった。知り合った場所が合コン会場だったら、同じように扱われていたのかと疑問に思う。

 

神戸連続児童殺傷事件(1997)

 

 当時、この事件の報道が東京・埼玉連続幼女殺人事件の影響を受けていたことを裏付ける記述を発見した。

被害少年の首が学校の校門にさらされるという猟奇的な事件であったことから、マスコミは連日事件の報道を行なった。映画「羊たちの沈黙」でアメリカで開発されたプロファイリング捜査法が一般の知るところとなったため、マスコミ各社は犯罪心理学者や作家にプロファイリングを行なわせたが、いずれのプロファイリングで出された犯人像も東京・埼玉連続幼女殺人事件の犯人像(成人男性、オタク、車を用いる)の域に限られており、予想外の少年の逮捕はマスコミの報道を加熱させるのみであった。 

出典:フリー百科事典ウィキペディア(一部改定)

 精神科医の斎藤環氏は、著書『心理学化する社会』のなかで、犯罪の報道に「心の専門家」を自称する人々によるプロファイリングの真似事をこう批判した。

      

やはりMを契機として、何かが決定的に変質したのではなかったか。八九年以前は「コメント」は常に「事件」に、あるいは「事実」に追随していた。しかし八九年以降、この関係が徐々に逆転しつつあるように思われる。それは「精神分析」の登場以降に、それ以前にはなかったさまざまな疾患(「境界例」「多重人格」など)が出現した経緯と似ている。

 メディアによって解釈され、あるいは物語化されること。事件の当事者は、そうした欲望に基づき、あたかも存在確認のようにして犯罪を犯す。少なくとも「M」から「酒鬼薔薇」を結ぶ線上において、そのような変質が見て取れるように思う。周知のように、「酒鬼薔薇」に至っては、逮捕前から「犯人推理」を含むコメント合戦が行われ、逮捕後はいっそう物語化が促進された。

斎藤環『心理学化する社会 なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』PHP研究所2003年 143頁(一部改定)

 

 斎藤医師は、マスコミによるプロファイリングごっこを大衆の物語欲望への供給行動とし、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人の精神分析結果のまとまりの無さから、精神分析が恣意性の強いものであると言う。故に犯人確定前の神戸連続児童殺傷事件の報道においても、恣意的な第2Mが作り上げられたのである。犯人が少年だとわかると、また新たな物語を求め「心の闇」という物語を作り上げた。2005年の今となっては、プロファイリングブームは主に超能力者によって支えられている。心の専門家の信頼が減ったとなると次はシックスセンスに頼ろう、など、現代とは思えない神秘主義志向である。それでもそういった番組を何の違和感も無く楽しめる私たちは、いかに解釈不能な理不尽に対して説明を求め、何としてでも解釈可能な「物語」にしたい存在なのだと思い知らされる。

 そういった経緯で、犯罪に関するコメントが事実よりも物語性に即して納得される風潮が出来上がった。M事件をトラウマに抱える日本社会において、こういった大衆傾向の被害者のうちにオタク達がいるのかもしれない。

 

宮城警官刺傷事件(2005

 

      宮城県の駐在所で起きた警部補刺傷事件で、逮捕された少年(14)の自室で24日、モデルガンの「弾痕」が見つかった。少年が銃目的で別の駐在所に侵入したことも分かり、関係者に驚きや困惑が広がった。なぜ、本物の銃を手に入れたかったのか。県警佐沼署は少年の部屋からモデルガンなどを押収し、動機などの解明を急いでいる。
 木造2階建て住宅の1階6畳和室が、少年の部屋で、アニメのポスターが壁に張り巡らされ、机の上などには戦闘ロボットや少女のフィギュア人形が並んでいた。モデルガンや約20本のゲームソフトがあった。障子にはモデルガンの弾で開けられた穴もあり、ふすまには刃物で切りつけたような跡も見つかった。

                           YAHOO! ニュース 毎日新聞 2005825日より

 

上に引用したのは最近の少年犯罪に関する新聞記事である。どうやらこの少年はオタク趣味を持っていたらしい。

この事件のテレビ報道では少年の部屋の映像が流れ、視聴した人の話では視覚的インパクトはかなり大きかったと言う。

少年犯罪の報道において、容疑者少年の部屋を映すというのは稀である。それでは、もしも少年の趣味が釣りであったり、ギター演奏であったりしたとして、それらの趣味道具の並ぶ「ふつうの」部屋の映像を流しただろうか。やはり、容疑者少年の部屋がオタクっぽいという点に、ワイドショー的な価値があると思われる。それらを見て喜ぶ人は、おそらく特殊な趣味嗜好に少年犯罪という恐怖に対する不安を押し付けて安心しているのだろう。あるいはオタクを貶めてバッシングすること自体に喜びを感じているのかもしれない。

 

オタクバッシングの要因は何か

 

なぜ犯罪報道において、オタクっぽい要素は隈なく過大に扱われるのだろうか。また、なぜ奈良女児誘拐殺人事件のときのように、幼女殺害の犯人はオタクにされやすいのだろうか。後者の場合は東京・埼玉幼女連続殺人の歴史をマスコミが引きずっているからであろう。しかし、両者に共通する、オタク報道に関わる恣意性は、結局は同じ大衆心理に帰依するように思われる。

ここに次のようなデータがある。これは「人力検索サイトはてな」というウェブサイト上で実施されたアンケートと、質問に対する意見などの書き込みである。

 

質問:マスコミ報道はなぜかオタク叩きに偏る傾向がありますが、その原因はどこらへんにあるのでしょうか。あえてアンケート形式にしてみますが、いわしへの書き込みも歓迎します

 

質問者:popona (64)    

質問ID1104852904    対象:はてなダイアリー市民 閲覧済み:658

現在の状況:この質問は終了しています  

回答ポイント:1ポイント × 658 回答件数:658

質問日時:2005/01/05 00:35:04                           

カテゴリ:アンケート  

 

 回答一覧(一部、上位4項目を引用) 

オタクを称える報道よりオタクを叩く報道のほうが簡単だから (399票)

オタクを叩いておけば数字が取れるから             (297票)

オタクについて詳しいことを知らずに報道しているから     (232票)   

社会の大多数はオタクが嫌いだから               (222票)

 

人力検索サイト「はてな」  http://www.hatena.ne.jp/1104852904

 

やはり、マスコミがオタクバッシングを好むのは、私たち大衆がそれを求めているからに他ならない。社会学的なマスコミ論では、マスコミュニケーションにおいて受け手である私たちは、一見受動的に見えるが、実は情報の解釈作業において積極的に意味を構築する積極的な存在であるという。(※)

マスコミは、理に適っていないバッシングを垂れ流し、事件を恣意的に物語化する。この場合の物語化とは、猟奇殺人などの理解不能性・恐怖・不安をオタクという反社会的な(と捉えられている)モデルに投影することにより、内的不安定を解消することである。大衆がそういった「浄化」を求めているからこそ、一部のマスコミが理論的でなくともセンセーショナルな主張を大きく扱い、事件を物語の系譜で語ってしまうのである。(※)そして、それらの妄語を享受し、意味を再構築した結果「オタクは悪い」という漠然としたイメージが形成されたのではないか。

少なくともこの20年間の犯罪報道を振り返ると、オタクと犯罪を結ぶセンセーショナルな部分には、スキャンダリズム・センセーショナリズムにじみ出ている。それらは受け手の感情に訴えるものであり、オタクバッシングの場合、これは嫌悪感や差別意識を喚起すると言える。

もちろんすべてのジャーナリスト、すべてのマスメディアがこのような偏った報道をしているわけではない。むしろ最近ではごく限られた期間、限られたジャーナリストによってしか過激な主張はされないし、中には感情的なバッシングに冷静な批判をもって対抗するジャーナリストもいる。普段の夕方のニュースなどでは、オタク報道に関しては冷静なものが多い。しかし、例えば幼女殺人などが起きた場合などは、犯罪学を専門としない自称評論家も「児童ポルノはこういう犯罪を助長するから規制すべき」と発言しているのをしばしば目にする。

 

 上に引用したアンケートに対する回答者のコメントがあった。

 

 

35605  個人的な考えですが           投稿者:teba 投稿日:2005/01/05 01:09:52

問題をおこすような人間は、自分達とは違う人種だという理由が欲しいんだと思います。
「オタク」という要素は、それにピッタリ当てはまるんでしょう。

 

 民俗学的に言うと「ケガレ」の排斥として、猟奇事件の後味の悪さをオタクバッシングで浄化しようとしているのかもしれない。「物語化」の目的が理解不能な理不尽の内的位置付けであるとすれば、物語中にオタクという悪を社会の敵として登場させるのがある種の常套手段になっていたのかもしれない。

 

35622   同じ土俵に立つと負けるから同じ土俵投稿者:K14 投稿日:2005/01/05 11:25:48

マスコミは「自分が正しい」としてしか動かない(動けない)ですから
罪の意識無く情報操作をしまくっていますね。
「オタク」自体がマスコミの作った虚像かもしれません。(略)

 

 評論化単位の勧善懲悪思想や「正義の味方気分」についてはオタクバッシングにおいて特に顕著に見られる。「『オタク』自体メディアの作った虚像」という部分は、語源や使用状況の変遷から考えて、あながち嘘でもない気がする。

 

36001 別にヲタに限らず……        投稿者:zacromai 投稿日:2005/01/09 12:25:22

 

人というのは、常に社会の中に下層身分を置いておかないとモチベーションのようなものが維持できないのかもしれない。

もしヲタ文化が社会から目立たぬほどに矮小化したら、こんどはまた別のマイノリティを叩くだろうと考えられる。


ネット掲示板上では様々な差別・偏見が渦巻き殺伐とした世界が繰り広げられていると言う。(荷宮和子著『声に出して読めないネット掲示板』)それは日本の社会が勝ち組みと負け組みに2極化されていく中で、不平不満が積み重なった事が原因らしい。オタクバッシングにもこの点が関わっているかもしれない。

 

これらは全て一意見であるが、極めて鋭い指摘の数々である。オタクは様々な要因のもとにバッシングされ続けてきた。マイナスイメージは人々の思考回路に蓄積され、差別意識を生み、「オタクキモい!」という偏見はもはや矯正不可能の域に達していると思われる。条件反射のように「キモい!」と返し、忌み嫌う様はまさしくオタクフォビアと呼ぶに相応しい。

 

『電車男』で何が変わったのか

 

20059月現在、ドラマ『電車男』 の人気によりオタクブームが著しい。もし今、同じ全校アンケートをとったならば、「キモい」を越えて「電車男」がイメージ1位をとるような気がする。同級生は毎週放送日の翌日『電車男』の話で盛り上がっており、フジテレビは関連コーナーで盛り上げるのに必死である。実際のオタクを取材した番組も増え、日々テレビから目が離せない状況となった。ほんの数ヶ月前までとは違う空気がオタクを取り巻いているのを感じる。

20057月に実施したインタビューで『電車男』の話が出たときは、まだこういう認識だった。

 

知佳:『電車男』で(一般人の差別意識が)変わりますかね?

たま:あのお話はオタクといっても出会いはあって、人を好きになって異性と付き合う事も出来るって言う事がテーマなんでしょ。実際にあったことかもしれないけど、ロマンティックラブストーリーだよね。

から:ある程度話が変えられてるところもあるよ。でも、あれで少しでもオタクのイメージが変わるといいと思う。

たま:でも、ただの映画、ただのドラマとして楽しんで「いい話だった」で終わりそうな気がする。イメージが変わるまで行くかどうかはちょっとわからない。

 

 たしかに、20年の歴史を持つ差別意識を覆すほどの力はいちドラマには無い。しかし、一連のブームによってオタクやオタク文化の現状が広く知られるようになったのは確かだ。危険な犯罪予備軍だという認識よりも「コミカルな人格で変わった趣味の人」程度のオタク像がしだいに定着していく兆しが見られそうだ。

 

目には目を、メディアにはメディアを

 

 オタク偏見は、マスメディアを介して形成された情報化社会型偏見の典型である。